無外流とは

刀
流祖 辻月丹は自鏡流居合の祖・多賀自鏡軒盛政について自鏡流居合を学んだ。その後も代々自鏡流宗家の指導を受けた。
無外流居合は正確に言えば自鏡流居合である。
自鏡流居合は第六代で途絶えたが、その後も無外流剣術の指南役が指導したため一般に無外流居合と称されることになった。

月丹を祖とする無外流の各地への発展は、甥の辻右平太と、神官猿渡豊後の長男で月丹に師事し後に養子となり都治姓を名乗った記摩多によってなされた。
記摩多は正徳五年二月十一日、月丹六十七歳のとき土佐藩山内豊隆に仕えた。右平太は同時期、厩橋藩主酒井忠挙に招かれ指南役として仕えることになる。
右平太の系統は、厩橋藩・酒井本家(後に姫路に転封)、伊勢崎藩・酒井分家、挙母藩・内藤家の三藩に継がれ、記摩多の系統は土佐高知藩・山内家に継がれた。

酒井本家の系統となる十二代高橋赳太郎は警視庁に奉職、名人とうたわれた。後世に大正の三達人、警視庁三羽烏と云われたのはこの無外流 高橋と小野派一刀流 高野佐三郎、そしてもう一人が無外流土佐派 川崎善三郎であった。

現在の無外流居合は、無外流中興の祖である中川士龍先生によって「無外流居合兵道」として確立した。


無外流居合の形      流祖 辻月丹

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